大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 昭和50年(行コ)25号 判決

控訴人

大川はま

右訴訟代理人

中村光彦

被控訴人

三田労働基準監督署長

三宅正元

右指定代理人

押切瞳

外二名

主文

原判決を取消す。

被控訴人が昭和四四年一一月一二日付で控訴人に対してした労働者災害補償保険法に基く遺族補償給付及び葬祭料を支給しない旨の処分を取消す。

訴訟費用は第一、二審も被控訴人の負担とする。

事実《省略》

理由

一控訴人の夫勇が、もと高取運輸株式会社に艀第八香取丸の船長として勤務していたところ、昭和四四年四月二二日右艀に乗船し、午前九時四〇分頃出航のため曳舟に曳行されて芝浦運河岸壁から約一〇米離れたとき、同船の後部甲板上に転倒し(以下このことを「本件事故」という)、直ちに病院に収容されたが、同日午前一〇時死亡するに至つたこと、並びに控訴人は勇の死亡当時その収入によつて生計を維持していた者であり、且つ勇の葬祭を行う者として労働者災害補償保険法に基く遺族補償給付及び葬祭料(以下「本件給付」という)の受給権者であるが、被控訴人に対し本件給付の請求をしたところ、被控訴人は勇の死亡が業務上の事由によるものであるとは認められないとして、同年一一月一二日付で控訴人に対し本件給付をしない旨の処分(以下、「本件処分」という)をしたことは、いずれも当事者間に争いがない。

二そこで勇の死亡が業務上の事由によるものであるか否かについて判断する。

(一)  まず、勇の死因について接するに、

1  〈証拠〉によれば、勇の死後、直ちに同人の遺体を解剖したところ、左右冠状動脈基始部特に左冠状動脈基始部に顕著な硬化症が認められ、また左心室後壁から中隔にかけて前に心筋梗塞をおこした瘢痕である心胼胝が広範に存し、右心室は中等度に拡張して、心臓の重さは普通人の一、五倍あり、心肥大がやや高度であつたこと、通常冠状動脈硬化症にかかると、冠状動脈の内腔が狭窄して冠血流が減少するため、心筋に対する血液の供給が不足して、心筋梗塞を発症せしめるに至るといわれていること、以上の結果、勇は少くとも死亡一ケ月以上前に、冠状硬化症により、一回又は数回、心筋梗塞をおこしたものと見られること、ところで、右のような心筋梗塞をおこすと、心臓の機能が著しく低下するため、何らかの肉体的又は精神的きつかけによつて、不意に悪性の不整脈をおこして、突然死亡するに至るおれれが多分にあること、従つて、心筋梗塞をおこした場合には、まず絶対安静にすることが必要で、過激な労働は厳に慎しむべきであり、もし勇の生前、医師が同人の前示心筋梗塞(既往症)を知つていたなら、艀作業のような重労働は同人の心臓に過大な負担を与え、疾患が悪化する危険性十分であるから、必ずやこれに従事しないよう同人を指導したであろうこと、及び解剖当時、勇の身体には、前示動脈硬化、心胼胝等の内因以外、死因となり得る所見は、外表にも内臓にも発見されなかつたことが認められ、

2  また、〈証拠〉を綜合すれば、勇の従事していた艀作業は主として鋼材を、曳舟に曳航された艀によつて、本船から指定の倉庫まで運搬する作業であつて、死亡当時同人が乗務していた艀第八香取丸は全長二八米、幅六、五米最大積載量二八〇屯の大型艀(鋼鉄船)であつたが、乗組員は船長である勇唯一人であつたこと、そのため、同船における勇の艀作業は機敏さと腕力ないし筋力及び耐久力等を要求される過激なもので、これを艀だまり又は岸壁からの曳航開始ないし曳航中に限つていつても、曳航開始時には、まず船首において曳舟に曳網を投げて、適当な間隔をとつてた後、その一端を艀の前部「ピット」に巻きつけて固定し(しかも、以上の作業は、せいぜい一分間ぐらいで、これを完了しなければならない)、しかる後すばやく船尾に来て、重さ約四〇ないし五〇キロ長さ約二米、幅約三〇センチ、厚さ約一〇センチのけやきの梶棒を甲板から持ち上げて梶穴に差し込み、以て艀の方向をとり、曳航中は、いかなる風波のある場合でも必ず右梶棒を握つて立ち続けなければならないという重労働であつたこと、ところで本件事故は芝浦運河岸壁における前示艀の曳航開始時に発生したものであるが、右曳航開始時に通常、勇(艀の船長)が必ず行わなければならない作業は、前叙のような曳網を張ること及び梶棒を梶穴に差し込むことであるところ、本件事故がおきたのは右曳網張りの作業が終了し曳船が開始された後のことで、しかも同人の転倒した場所は船尾の前示梶穴及び梶棒のすぐ傍であつたこと、また同人が梶棒を甲板から持ち上げ、これを梶穴に差し込む動作を見ていた者はいないが、唯一人勇の転倒した瞬間を目撃した島田松夫は、同人が勇の勤務先である高取運輸株式会社の業務係長として艀作業の手順を知悉しており、且つ以上のような事情からして、恐らく勇は前示梶穴の傍で、梶棒を持ち上げようとして腰をかがめて力を入れたとき転倒したものと推測していること、並びに勇は昭和四二年一〇月一日から前示高取運輸株式会社に勤務していたが、体が丈夫で殆ど欠勤したことがなく、やや高血圧の傾向はあつたが、心臓の疾患など訴えたこともなく、煙草は一日二〇本、酒はときたま飲む程度で、前示心筋梗塞の発症を知らず、本件事故当日も平常どおり艀作業の勤務に就き、もちろん飲酒などしていなかつたことが認められ、

他に右各認定を覆すに足る証拠はない。

以上の認定事実によれば、勇はかねてから相当高度の冠状動脈硬化症にかかつていたが、本件事故より少なくとも一ケ月以上前に右硬化症により一回又は数回心筋梗塞をおこし、そのため心臓の機能が著しく低下して、前示艀作業のような過激な労働に耐えるだけの能力を失つていたのに、これを知らず、元来体が丈夫で勤勉実直なところから、依然右艀作業に従事し、本件事故当日も平常どおり勤務に就き、芝浦運河岸壁において前示艀の曳航が開始されるや、まず船首において前示曳網張りの作業を終了した後、すばやく船尾に来て、重い前示梶棒を甲板から持ち上げ、これを梶棒に差し込む作業に着手したため、突然悪性の不整脈をおこして転倒し、右不整脈により急死するに至つたものと認めるのが相当である。

(二)  次に、控訴人が本件給付を受けるためには、昭和四八年法律第八五号による改正前の労働者災害補償保険法第一二条の援用に係る労働基準法第七九条及び第八〇条に規定する災害補償の事由、即ち「労働者(大川勇)が業務上死亡した場合」に該当しなければならない。ところで、ここにいいわゆる業務上の死亡とは、業務と死との間に相当困果関係が存すること、いいかえれば死亡が乗務遂行に起因する――死亡に業務起因性が存在している――ことを意味し、また、これをもつて足りるのであつて、必ずしも死亡が業務遂行を唯一の原因とするものである必要はなく、特定の疾病に惟患し易い疾病素因や業務遂行に起因しない既存疾病(これらを併わせて以下「基礎疾病」という。)が条件ないし原因となつて死亡した場合であつても、業務の遂行が基礎疾病を誘発または急激に増悪させて死亡の時期を早める等それが基礎疾病と共働原因となつて死亡の結果を招いたと認められる場合には、労働者がかかる結果の発生を予知しながら敢て業務に従事する等災害補償の趣旨に反する特段の事情がない限り、右死亡は業務上の死亡であると解するのが相当であり、この場合、被控訴人主張のごとく事故当時における業務内容自体が、日常のそれに比べて、質的に著しく異なるとか量的に著しく過重でなければならないと解する合理的根拠はないものというべきである。

これを本件についてみれば、勇の前示冠状動脈硬化症の発生自体には、同人の業務である前示艀作業との間に相当因果関係を認めるに足る証拠はないから、右硬化症を原因として発症した前示心筋梗塞もまた業務起因性のない既存疾病であるという外はなく、また、勇の前示心筋梗塞の症状では、労働すると否とにかかわらず、何時でも、悪性の不整脈をおこす余地があり、従つて艀作業に従事していなくても死亡するおそれがあつたことは、〈証拠〉に徴してこれを認めざるを得ないが他方、前段認定の諸事実を綜合すれば、勇の前示既存疾病自体は、当時、自然増悪の過程をたどつていたわけではなく、むしろ、停滞状態ないしは緩慢な増悪の過程にあつたものと推認すべきであるから、右死亡のおそれは必ずしも絶対的なものではなく、同人が艀作業に従事しないで静養しておれば、なお回復の可能性がなかつたわけではなく少なくとも、相当期間死亡しないですんだであろうと考えられること、また、同人の前示艀作業が精神的緊張を伴う相当強度の肉体労働であつて一過性の血圧亢進をひきおこしやすいものと推認することができ、これらの事実に、前段認定に係る同人の既存疾病の性状、健康状態、本件事故が発生してから同人が死亡するに至るまでの時間的経緯等を併わせ勘案すれば、勇の死亡は、心筋梗塞による心臓の機能の低下が直接の原因ではあつたものの、同人の前示業務の遂行が既存の心筋梗塞を急激に増悪させ、これらが共働原因となつて、突然悪性の不整脈をおこして死亡の結果を招くに至つたものであると認めるのが相当である。そして、勇には前叙のごとき特段の事情の存在を肯認するに足る証拠がなく、却つて、前段認定のごとく本人は心筋梗塞の自覚さえしていなかつたのである。それ故、勇の死亡は、被控訴人認定のごとく単なる業務の機会に発生した偶然の出来事ではなくして、業務上の死亡であると認定するのが妥当である。

してみれば、被控訴人の本件処分は違法であつて、これが取消を求める控訴人の本訴請求は理由があるものといわなければならない。

三よつて、以上と異なり、控訴人の本訴請求を棄却した原判決は失当であつて、本件控訴は理由があるから、民事訴訟法第三八六条によりこれを取消し、控訴人の右請求を認容することとし、訴訟費用の負担につき同法第九六条、第八九条を各適用して、主文のとおり判決する。

(渡部吉隆 古川純一 岩佐善巳)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例